映画大好きポンポさんの映画に対しては予告編を見てからずっと懐疑的だったのです。
原作は惚れ込んでます。こっちの都合で全部の感想は書いてませんが3までの全6冊のポンポサーガは全部読んでます。全部おもしろかった。
だからこそ映画化はうれしかったのですし、やった!って思いましたが、同時にわりに待たされたあとの予告をみて「ん?」と思ったんですよね。
あれ?おれの頭の中でのポンポさんの「ポンポさんが来ったぞーっ!」じゃない?って。
なぜ?なぜ?おれが思う声優でも随一のマンガのニュアンスを見事に捉えて発声できるプロで名人の小原好美さんなのに、おれのそれとちがう?って違和感。
(だいたい小原好美さんの素晴らしさをいっとき1万字くらい文章で書いてたんですが未発表だったり→ただのファンの妄想電波文になったから自主ボツ)
そして予告編の最後のほうも原作にないよなあ?の展開。「僕の映画にはひとつ足りないシーンがあるんです」というセリフ。
と、何抹もの不安を抱えつつも封切り初週と次の週と2回みました。なぜなら描き下ろしのマンガ小冊子の前編後編が配られてたから。
映画はおもしろかったです。より原作の謎が解けたような気がしました。それは同時に映画評にもなると思うのでそのラインで進行していきます。
この主題歌ほか4曲挿入歌されてます。ここが最大の「見解の相違」だったんだなあと。
誰と?
おれと監督と。
おれの感想文の最後のほう。
>>
蛇足ですが。
この完璧な作品で足りないのはエンドロールじゃないかなあと。
<<
で、
この動画を貼り付けてます。邦題は「我が愛のフィルム」です。
これをラストに流すのはどうか?と思ったのですね。ベタですがポンポさんが舌っ足らずの英語でカバーして登場人物がコーラスしたりボーカルまわしたりする感じを想定。
書くだけ書いて青臭くて中2っぽくて恥ずかしいからすぐに削除しようと思ったのですが「そう思ったのだから」って記念に残してたんですよね。それ、正解だった。
この曲というか想定こそが、おれのポンポさん観なんだなと。
「映画大好きポンポさん」という作品は以前の感想でも書いたとおり、チートでイレギュラーな映画のことならなんでもできるポンポさんという存在がいる映画世界ニャリウッドの話です。これ、限りなく地続きである異世界なんですよね。そう位置づけましょう。そうするとあらゆる点で無理がある「ポンポさん」という存在を成立させることができる。
うん、つまり、どこかおとぎ話、フェアリーテイルだと捉えてたんだよね。おとぎ話の中心にポンポさんがいる。
だからおれの選曲はどこか牧歌的なものだったんですよね。気の抜けたリズムマシーンに乗ったカラオケのようなカンツォーネでのんびりしたもの。
映画の「映画大好きポンポさん」の脚本監督である平尾隆之氏は作品のコンセプトに「マイノリティがマジョリティに一矢報いる映画」としてます。パンフレットのインタビューより、
え?そうなの?ってのがおれの最初の感想です。青天の霹靂です。そんなこと思ったこともないから。そう思って映画を思い返すと、「一矢報いる」感がすごいなと。
原作に牧歌的なものを感じた理由は「いろいろ」ありましたが、大きなものは映画を撮りはじめたら割合とスルスルと完成し上映までこぎつけたからです。それはなんでもできるおとぎ話の魔法使いで妖精なポンポさんいたからです。
(ここから映画版のネタバレに抵触していきます。昨今のエコな風潮に配慮して行間をあけたりせずにすぐにバレます)
というのも、原作ではジーン君やナタリーはポンポさんの手のひらの上でいうがままに動いてあれよあれよと成功へと導かれたように見えます。もちろん、当人の才能や努力もありましたが、そこらへんもきちんとジーン君やナタリーを見出したポンポさんの慧眼と的確なガイドによるものでした。
ところが映画版では、上記の予告編の最後にもあるようにジーン君は「僕の映画にはひとつ足りないシーンがあるんです」といってポンポさんに追加撮影をさせてくれと反旗を翻す展開になっていきます。
ここらへんは想定の範囲内ではあります。マンガを読んでおわかりでしょうし、なにをどうしても、この映画は90分で終わらせるべきなんですよ。10人映画監督がいても10人ともそれを守るでしょう。
しかし、もとが通常の少年誌の単行本1冊にも満たないページだったので、なんらかの「かさ増し」が必要であった。それをどうするんだろうなあとは映画前から思ってた。原作通りなぞったら60分ももたないような気がしてたから。
そのかさ増しのところに監督が想定した一矢報いるゾーンを入れた。ニューキャラとニュー展開をぶっこんで。なおかつ憎いのはそれまではあらゆる映画的アニメ的な技法を盛り込んでいってますが(おれの敬愛するブライアン・デ・パルマ監督の得意な画面分割があったときはうれしかった)、それなりに原作に忠実に展開していったのです。そのニューキャラとニュー展開は、映画を撮り終えて「編集作業」に入ってからなのです。編集作業でそこから平尾隆之の編集がはじまるのです。憎いことするなあ。
「一矢報いる」ってことに軸をおいてみると、ニャリウッドが舞台のおとぎ話からの逸脱ではあります。それすなわち、ポンポさんからの逸脱。
「ポンポさんなんでもおもしろく撮れちゃうのよ」と、話の最初のころにいってたとおり、ポンポさんはジーンくんがなぜ?と思うようなくだらない内容の映画もちゃんとおもしろく撮れてしまう。映画に愛されたチートキャラだから。それはつまり映画にまつわるところすべてでもあるわけです。ビジネスに関するところも。
だから、ジーンくんが「足りないシーンがあるから撮りたい」と土下座でたのんだときも怒ってましたが、なんとかするわけです。チートですからなんとでもなる。ただ、そこのところでチートキャラの無敵な存在ばかりでもなくなるわけです。
それでいて銀行員という生々しい役のニューキャラ。資金繰りという問題まで出てきます。なんか「そんなわきゃねえだろ」とも思います。現実的に考えてもそんなわきゃないし(普通に考えたら頓挫or普通に追加)、ニャリウッドというおとぎ話の関連でいうと、チートのポンポさんがなんとかしてしまいますよね。だから、そこがネックになるのはわりと「そんなわきゃねえだろ」と。
そこらへんの急に生々しいリアル。つまり、ニャリウッドからハリウッドに、ニャカデミー賞からアカデミー賞に抵触させていく瞬間です。そこの葛藤や生々しさを生み出すことで「一矢報いる」感がでるし、それはおれの想定していた「我が愛のフィルム」みたいな牧歌ではなくて「例えば」のように切迫感のある今どきの歌に寄せていき合ってくるわけです。
ドリフ大爆笑のコント「もしも、こんなニャリウッドがあったら」の世界だなあとか。そして平尾ワールドになるなあとも。
もちろん、原作者杉谷 庄吾【人間プラモ】氏も、たとえば、2ではジーン君とは別に映画を撮ったりしてるとか、3ではポンポさんが学校に通ったりとかしているし、そこらへんに1(便宜上)のおとぎ話というのはおれがいってるだけでいろいろな解釈をしているわけですし、それになにかいう筋合いではないことももちろんわかっております。クトゥルフ神話のようにポンポサーガが広がっていくわけです。
それで90分のドラマになり、すんなりと映画ができるってわけじゃないぞってメッセージにもなり、「一矢報いる」要素もより明確に入るわけです。
それを劇場で「なるほどなあ」と思ってみてました。こうすればいろいろな層にも波及するなあと(挿入歌主題歌4曲が1つの映画に収まるなら4つの歌い手のファンである私はみるってYou Tubeの予告編のコメントにありました)。
なによりエモくなる。
ということを教わった気がします。映画大好きポンポさんの映画が映画たらしめるための「編集」のマジックといいますか。実際、編集は大事ですよね。映画本編でもそこをテクニック含めてみっちりやってましたし、原作でもそういう方向の話もありました。
あとひとつ。
監督のジーン君とヒロインのナタリーは映画界の新人です。だから声優も新人の2人を起用してました。そして、世界一の俳優マーティンブラドックやポンポさん、あとベテラン女優のミスティアさん。ここらにはベテラン声優さんを起用してます。ここらへんの対比。
「ようこそ夢と狂気の世界へ」というポンポさんのセリフがありますが、それがまさにこの声優界にもあてはまるのではないか!って。
憎いな。ここらへんの仕掛けでまだ発見できてないところが盛りだくさんなのではないかと思われるので機会があったらこれを書いてる現在は発表はされてない円盤等で積極的にみていきたいなとは。
あ、それで冒頭にあった「ポンポさんが来ったぞーっ!」の違和感も本編ではそんなことはありませんでした。パンフレットのポンポさん役の小原好美さんのインタビューによると中身40代の感じで演じてくれとディレクションがあったのを聞いてなるほどと思いました。たしかに、ここでのポンポさんはそういうところもあるよなあとか。
ただ。いろいろ盛り込んだために原作の2にあたるところもちょっと抵触してね?って。仮に劇場版の2があったらそこらへんどうなるんだろうかなあと。
映画自体の完成度はすごいです。何度も読んだ原作のあんなところこんなところが動いて喋って様々な演出で映像化されているのを眺めるのは至福でした。
原作ファンも、原作を知らない人にも、刺さるところの多い映画だと思いました。満足ではあるのです。